2001年3月25日
礼拝説教題 「神の呼び出し」
出エジップト記 3:1〜12
恐れ逃げ隠れしていた犯罪者に、神は「モーセよ、モーセよ」と呼びかけました。
そのことによって彼は本来の自分を取り戻していきました。
神様の導きによって、エジプトの女王に育てられたモーセでしたが、成人した頃、
殺人を犯したことで人生がくるい始めました。エジプトから逃亡し、過去を捨て、羊飼いとなり、
隠れて生きていました。彼は、人生がくるい、逃亡生活となることを願っていたのではありません。
暴力のあふれる世に生きているうちに、いつのまにか罪の中に巻きこまれました。
神は、苦しみを見、叫びを聞き、痛みを知るとおっしゃいます。それは、イスラエルの民の姿であり、
モーセ自身の姿でもあります。巻き込まれるようにして、罪の中にはまるモーセの苦しみ、
叫び、痛みを神は知り、呼びかけられるのです。それからモーセの人生の修正がなされていきました。
本来の自分を見失い、命を与えてくださった神さまの願いを無にして生きることは、
いつの時代の人間も抱えている姿です。聖書にもそのような人が何度も登場しますし、
私たちがしばしばそうなっています。しかし、神はそのような者を見捨てるのでなく、名を呼ばれます。
泥沼にはまり込んでいるモーセの名を呼び、ザアカイの名を呼び、私の名を呼ばれるのです。
神と共に歩みだし、修正され、本当の意味で生かされるためにです。
呼ばれたときにモーセは顔を覆いました。泥沼にいるゆえ、合わす顔がありませんでした。
だからこそ、神が降って来られます。自分では、泥沼の中から出られず、顔を覆うしかないような者に、
呼びかける神は、そこに降って来られ、そこで共にいてくださるとおっしゃる神です。
そうして神が共におられるゆえに、人生を修正していくことができます。
泥沼から一緒に出ようとおっしゃる神と共に歩みだすのです。
そうして、私たちも神より与えられた命を全うし、祝福された命を進むものとなります。